岡山一成が考えるワンポイントキャリア【第6回】
引退を間近で見届けた者(中編)

2017.04.14

岡山一成が考えるワンポイントキャリア【第6回】の写真

サッカー選手は練習を休む際、チームメートに申し訳ない気持ちになる。

 

怪我をしてしまい、チームに迷惑をかけたこともやし、自分が抜けることにより、それぞれの選手に負担がかかるから。

怪我人が続出すると、負の連鎖が止まらなくなる怖さがある。

 

だから、自分が休むことは、チーム全体の問題でもある。

あと、単純に、みんながしんどい練習をしてるなか、サボってる気分になる。

 

「ゴメン、今日も練習出来そうもない。迷惑かけてばかりやな。」

 

引退する3年前の2004年から、練習を休みがちになり、思うように動いてくれない足首を嘆くようになっていった鬼木さん。

ブロック注射など、ありとあらゆる治療法を試していたけど、固まってしまったままで、日常生活にすら支障が出ていた。

 

オニさんが試合に出れないなか、川崎フロンターレは中盤の精神的支柱を失い、混乱していった。その窮地が結果的に中村憲剛という救世主を誕生させる起因になった。

その話はまた憲剛の章で書くわ。

 

自分が怪我で出なくなって、チームが勝ち続ける。

俺もオニさんと同じ時期に膝の手術をしたから、俺の想いとして書くけど、やっぱり寂しさはあった。自分がいなくても大丈夫なんだなあと…。

それぐらい、ダントツでJ2を優勝した。

 

2005年、俺は膝が完治して、試合に出たいとの想いから、アビスパ福岡に、2006年は柏レイソルにレンタル移籍をした。

 

オニさんは2004年に手術を決断して、必死のリハビリに努めていたが、引退する2006年の2年間で1試合しか出場出来なかった。

 

選手間でも、手術をした場合は、最低でも1年は考慮してもらいたいと考える。チームに貢献するなかでの怪我は、いわば公傷扱いにしてもらわないと、思う存分に闘えない。だから、自分の事だけでなく、チーム全体の士気に関わってくる。

 

オニさんが手術をしてから2年経過した契約の時期。そろそろアブナイな…。

 

「オニさん、俺もチームとの話し合いで川崎に帰るから、積もる話しもあるので、オニさんの家で鍋パーティーしましょう。」

 

オニさんの家は溜まり場で、奥さんが彼女やった時代から集まって飯を食べ、トランプやゲームをみんなで興じていた。

 

俺の状況の話の後、オニさんの契約状況を聞いた。

 

要約すると、選手としては契約満了やけど、スタッフとしてチームに残って欲しい。ただ、他のチームへの模索の道を絶って、フロンターレの鬼木として引退して欲しい。だから、トライアウトには参加して欲しくない。

 

「オニさん1人の話じゃないじゃないやん?奥さんも子供も、一家の主人として、治る見込みがないなか、フロンターレの好条件を蹴るのは、ただサッカーをやりたいだけじゃアカンで。」

 

いつもは和気あいあいの食後なのに、張り詰めた空気で充満していた。

 

「だけど、まだサッカーやりたいんだよ。少しずつだけど、治ってきてるし、だから、トライアウトまで、トライアウトまでに治して…。」

 

サッカーを思うように出来なかった2年以上の日々が、冷静さを失ったサッカーの迷い人に変えていた。

 

「オニさん、フロンターレは意地悪でトライアウトに出るなと言ってるんじゃないで。俺だって、2年以上、おもいっきりサッカー出来ずにいたオニさんが、急に足首が良くなって、トライアウトでどこかのチームからオファーがくるとは思えない。きたとしても、1年でポイッとされるのが見えてるやん。だから、チームもフロンターレの鬼木として、潔く引退をして欲しいと、親心やん。」

 

大概の選手に対して、出来る限りサッカーを続けていこうと励ましていくのに、ここまではっきりと引退勧告をしたのは、後にも先にもオニさんだけだ。

 

「だけど、このまま終えて、後悔ばかりして、納得も出来ないまま…。

サッカーやりてえよ…。」

 

絞り出すように呟いていた。

 

「フロンターレもオニさんの心情を分かった上で、自分自身でケジメをつけて欲しいからやん。サポーターの前でちゃんと、選手としての幕引きを自ら下ろして欲しいと…。その代わり、その後も面倒を見ると言ってくれてるんやから。」

 

いまでこそ、フロンターレは選手をチームに残してくれるが、その当時は、富士通の社員との関連性があり、いろんな事情があった。

だけど、オニさんを皮切りに、今野、久野、寺田、長橋、佐原、伊藤など、フロンターレの礎を築いた面々が、スタッフとして残り、脈々とフロンターレイズムを継承している。

 

奈良クラブと川崎フロンターレがアドバイザー契約を結んでもらっているから、事務所を訪ねると、先のメンバーは勿論のこと、運営スタッフの事務方の殆んどの人達が残っているから、あの当時の雰囲気を色濃く醸し出している。

J1の強豪チームに押し上げ、自分達がチームを支えているんだ。そんな活気に満ちた気概に、圧倒されてしまう。

 

俺が選手を続けた10年と、セカンドキャリアを歩んでいる10年。

それぞれの道を歩んでいたなかで、俺にしか経験出来ない事をしてきた自負と、取り残された疎外感が入り混じった感傷に浸ってしまうのも、歳をとったんやな。

こんな俺でも、いろいろ考えるんよ…。

 

 

オニさんがどのような形で区切りをつけたかは次回に書いていく。

 

 

岡山一成(おかやま・かずなり)

1978年4月24日生まれ。大阪府堺市出身。

初芝橋本高卒業後、97年横浜マリノスに入団。打点の高いヘディングを武器にデビュー戦から3試合連続ゴールを記録して一気に頭角を現す。大宮アルディージャ、横浜F・マリノス、セレッソ大阪、川崎フロンターレ、アビスパ福岡、柏レイソル、ベガルタ仙台、浦項スティーラーズ(韓国・Kリーグ)、コンサドーレ札幌と渡り歩き、13年8月から奈良クラブ(JFL)に所属。川崎フロンターレ時代に始めた試合後のマイクパフォーマンス“岡山劇場”がサポーター人気を集め、その後現在まで継続。14年4月24日には自身の著者「岡山劇場」を出版。
SPOSQU WEBの最新情報をお届けします。