チャレンジ精神で勝ち取った学生日本一。めざすは日本代表、将来は普及活動も視野。

2016.08.23

チャレンジ精神で勝ち取った学生日本一。めざすは日本代表、将来は普及活動も視野。の写真

 

パナソニックインパルス【中村正芳】選手

 

大阪産業大学附属高校時代にアメフトで全国2連覇を果たし、卒業後に進んだ関西大学では関西リーグ優勝、さらに甲子園ボウルで関東の強豪を倒して学生日本一に輝いた。
ところが絶頂を極めた矢先、交通事故で大怪我を負う。
再起は難しいと言われた医師の言葉を受け入れず、不屈の精神で見事復帰を果たし、大学卒業後はパナソニックインパルスへ。頂点とどん底を見たDB・中村正芳選手の生い立ちから社会人として活躍する現状、将来の目標に迫った。
 
 

半強制的入部(?)からのスタート

高校入学時は体が小さく身長は160センチ、体重は60キロしかなかったんです。そんな私がなぜアメリカンフットボールの世界に足を踏み入れたのか。それはクラブ見学の際、目に飛び込んできたアメフトの先輩たちの姿です。ヘルメットとプロテクターをつけた姿がカッコよく、挑戦する意味で体験入部しました。運動神経にはそこそこ自信があったし、新しいことにチャレンジしたいと思ったんです。

クラブ体験をして数日後のことでした。推薦入部の同期が1年生を集め、「入部しないやつは手をあげろ」と聞いたんです。まわりを見渡すと、誰も手をあげずにじっと座っている……というか、あげづらい雰囲気だったんです。その状況で自分だけ「入りません」と意思表示することもできず、そのまま入部が決まりました。いま思えば半強制的ですよ(笑)。

入部後、1年生は主に先輩の練習台になります。先輩との体格差は大きく、力の差は歴然としていたので、1日中倒されっぱなしでした。アメフトでは倒れて空を仰ぐことを、屈辱的な意味を込めて「青天」と呼ぶのですが、1年次は青天を何度繰り返したのかわかりません。

幸い、高校1年の後半から2年にかけて身長が一気に15センチほど伸びたんです。それとともに体も大きくなり、2年のはじめに念願のレギュラーになりました。

高校時代はアメフト漬けの毎日でしたね。休みもなく、友だちと遊ぶ時間もほとんどなし。ですが当時はその環境が当たり前だったし、チームには弱音を吐くような雰囲気もなかった。誰もが勝つために必死で苦を感じる暇もなく、気づいたら3年経っていた感じです。高校生活のすべてをアメフトに捧げた甲斐あって、2年、3年次に全国高校アメフト選手権大会で2連覇を果たしました。

 
 

「挑戦」がキーワード

高校卒業後、関西大学に進学した理由をひと言でいえば、挑戦したかったからです。当時、関西の大学アメフト界は立命館大学と関西学院大学の2強時代でしたが、大学ではトップ以外のチームから上をめざす挑戦をしたいと考えました。関大は関西リーグ1部で7校中5位と下位に甘んじていたこともあって、「この大学に入って強豪校を倒してやろう」と闘志が沸いたんです。

私は元来、経験のないことに興味を持ち、チャレンジしたいタイプです。高校でアメフトを始めたきっかけも自分への挑戦でしたし、大学を決めたのもトップを倒すというチャレンジ精神がもとになっている点で決断の根拠は同じ。この性格は変わりませんね。

大学では1回生の夏にU-19の日本代表に選出され、ワールドカップに出場。世界7ヵ国と戦い、3位に入りました。同じく1回生のとき、リーグ戦でトップ2だった立命館と関学に勝ち、リーグ優勝を経験。さら同じ年に甲子園ボウルに出場し、関東代表の法政大学に勝利し、大学日本一になりました。強豪校を倒すという目標を、大学1年目にしていきなり達成してしまったわけです。

 
 

絶頂から一転、どん底に転落

目標をトントン拍子で達成した矢先のことでした。2回生の冬にプライベートで交通事故に遭い、集中治療室に入るほどの大怪我を負ってしまったんです。普通に歩けるまでに回復できるかどうかはわからず、スポーツの再開は難しいと言われました。「ましてアメフトのような激しいスポーツはもってのほか」というのが医師の診立てで、絶頂から一転、どん底に突き落とされてしまった。

ですが私は、医師の言葉を受け入れることができませんでした。そんなはずはないと思っていたし、リハビリすれば必ず治ると自分に言い聞かせていました。だから通常は最低でも2ヶ月入院が必要なところ、2週間で退院。寝たきりの空間が息苦しく、松葉杖で歩けるなら自宅に戻ってもよいといわれ、痛みを我慢して無理やり歩いて帰りました。

その1週間後には松葉杖をつきながら練習に参加し、リハビリを開始。動かせる箇所を中心にトレーニングし、筋力の衰えを防ぎました。動かなければ復帰できなくなる――その焦りが強烈で、死にもの狂いでしたね。自分を信じてリハビリに励んだ結果、3回生の夏ごろに復帰し試合に出場できました。ただ、事故の影響で体のバランスが崩れ、以降は怪我に苦しめられることになります。
20160809_01
 
 

恩返しのためアメフトを続ける決心

社会人でもアメフトを続けることに決めたのは、恩師の影響でした。「アメフトに育ててもらったんだから恩返しをしろ。恩返しの意味は、アメフトに長く携わることだ」と背中を押してもらったんです。そこで高校のOBが社会人でプレーされていたパナソニックインパルスにお世話になることに決めました。

社会人になってからは、平日の昼間は仕事を行い、練習は週3回です。現在はマーケティング本部の近畿住建営業部の営業企画の仕事をしていて、セールスマンとのやりとりが多いですね。練習がある日は18時半に集合し、18時50分から全体練習、19時開始という流れで21時過ぎまで行います。その後、ミーティングをするかトレーニングを継続するか、選手それぞれです。

仕事とアメフトの両立で苦労するのはスケジュール管理ですね。仕事を残して練習に参加するわけにはいかないので、所定の時間内に業務を終えるための段取りや調整が大変です。

あとはトレーニングの質の管理と体調管理も難しい。学生時代はほぼ毎日練習し、ミーティングも合わせると1日5時間ほどはアメフトに費やしていましたが、いまは練習は週3回、1日につき2時間半程度しかありません。学生時代の半分以下の練習時間で結果を出すため、より集中して効率よくトレーニングできるよう意識しています。同時に体調管理にも気を配り、練習のない日やオフの日もトレーニングに出ることもありますし、家でも簡単な器具を使って毎日体を動かすようにしています。

 
 

日本代表で活躍したい

アメフトをやってきてよかったなと思う点は、根性がついたことですかね。厳しい練習に耐えるなか、体が強くなる前に心が強くなりましたから。

選手としての今後の目標は、日本代表になること。事故とその後の怪我の影響もあって代表をあきらめていた時期もありましたが、いまはチャンスがあれば狙っていきたい。チャレンジ精神はまだまだ失っていません。

できる限り現役を続けるのが希望ですが、引退後はアメフトを盛り上げる活動に携われたらと考えています。大学時代は小学校に出向いてアメフトを教えたり、インパルスでも同様に地域の小学校と一緒にイベントに参加したりと、アメフトの普及活動のお手伝いをしてきました。

スポーツ全般にいえることですが、アメフトを通して身につけた礼儀やマナー、目上の人への接し方などは人間力の形成に役立っている実感があります。だからもっと多くの人にそうした経験をしてもらいたいですし、そのために少しでも多くの子どもたちにアメフトを身近に感じてもらいたい。それがアメフトへの恩返しになると思っています。

20160809_02

Profile
中村正芳(なかむら・まさよし)
1991年2月14日生まれ。大阪府枚方市出身。大阪産業大学附属高等学校でアメリカンフットボール部に所属。2,3年のときに全国大会(クリスマスボウル)で二連覇する。関西大学に進み、1回生の時にU-19の日本代表に選出される。同年に甲子園ボウル(全日本大学アメリカンフットボール選手権決勝戦)に出場し勝利、大学日本一となる。大学卒業後はパナソニックに入社、パナソニックインパルスに入部しアメフトを続けている。

SPOSQU WEBの最新情報をお届けします。